制限

 アクセスコントロールが必要なのは理解できるけれども。せっかく技術が進歩して便利になっているはずなのに、制限を加えることで逆に不便になって利用する気が失せていくのは、権利を保護することよりももっと悲しいことなのではないかと思う。

 例えばTV番組をHDDレコーダーで録画して、それをDVDに移したいとき。無制限にコピーできてしまったら番組提供側としてはたまったものではないというのは理解は出来る。けれども、DVDに1回しか動かせないのはいかがなものなのかと思ってしまう。うちのレコーダーはDVDドライブが壊れているのでそもそも利用していないのだけれども。壊れていなかったとしてもそのような機能を利用するかあやしいものである。

 そもそもこれはコピーではなく単なる移動で、DVDに移した番組データはもうHDDドライブからは消えてなくなる。アクセスできなくなるというのが正しいだろうか。うちのHDDレコーダーだけがそういう仕様なのかもしれないけれども、ビデオテープの時代より不便になっている気がして仕方がない。

 技術的にはできるけれども、敢えてそれを制限するということは、HDDレコーダーに限らずさまざまなところで行われている。それは権利を保護するために、ビジネスとして成立させるために必要なことである。

 けどだからこそ、敢えて制限しない姿勢を打ち出されると「おっ」と思ってしまうのである。

 例えばKDDIAndroid端末にお財布ケータイ、ワンセグ搭載の時点でかなり「おっ」と興味をひいたのだが、更にSkypeまでとなると私の中でKDDI株が急上昇である。音声通話による通話料収入が減るにも関わらず、敢えて採用するその英断。英断というよりは普通にうまい手だなと思う。

 せっかく革新的な製品を送り出そうとしても、変に権利保護のために制限をかけたせいで製品ごとこけてしまっては意味がない。無論、製品分野によって様々ではあろうとは思う。けれども、真に保護されるべきは利用者の利便性であって、供給者側の都合を優先してしまうと結局は市場が廃れてしまって供給者も困ってしまうことになるのではないだろうか。単に制限をかければよいという問題でもないと思う。