努力する姿

 今日は1.5h。

 責任を取って辞めろというのは間違っている。無能だから辞めろというのが正しいと思う。

 結果はゼロですらなくマイナスである。余計な問題を増やして複雑にこじれさせて、しかも決着が付いていないとかどうしようもない。

 やることが裏目になってしまうこともある。完璧な人間なんていないのだから。

 だから人は結果だけで信用するわけではない。その過程をみて信用に値するかを判断する。

 努力しているからだけでなく、結果が求められるのは当然である。がんばっている姿をみて、その先に結果が出ることが信じられるかどうかで信用するかどうかが変わる。

 いえ、水面下でがんばっているんです、なんていうのはお門違いだ。がんばっているんだけど、それを報道してくれないからというのも間違いだ。

 努力するのは当然のこと。本当に努力しているのであればその片鱗はどこかから漏れて伝わって行くものだ。それが伝わらないということは努力が足りないか、本気で取り組んでいないかのどちらかだろう。

 努力する姿を見せるのは恥ずかしいという気持ちがあるかもしれない。私もそう思う人間だ。自分が努力している姿を見せるというのは、いかにも僕がんばってますよとアピールしているみたいでなんか嫌だ。それは見せるために努力しているからであって、そういう下心は思った以上に相手に伝わってしまうものである。

 それと同じように、本当にがんばっているのならばその姿勢は伝わるものなのではないだろうか。その雰囲気は伝わるんじゃないだろうか。そして伝わるくらい努力しているのならば結果だってついてくるだろう。

 結果が出なければ信用されない。結果が努力したことの何よりの証明になるからだ。三顧の礼にしかり、両親に結婚の承諾を得るために何度断られようと諦めずに頭を下げに行くことしかり。努力する姿が伝わり、相手がその努力を認めたとき、信用が得られる。

 そんな姿があの人に見られるだろうか。結果がマイナスばかりで、それでもまだ絵空事を言うあの人に。

 努力する姿勢すら感じられないのであれば、責任以前に無能を理由にさっさと辞めるべきだと思う。信じられない以前に頼むからもうこれ以上負の遺産を作り上げないでくれと願うばかり。